豪.ホームステイ

1回目

英語嫌いの僕が、大学時代にオーストラリアにホームスティすることになった。
その理由は、当時好きだった女の子の夢が「イギリスにホームスティ」することだったからである。
彼女は超~真面目で地味系美人、そして当時の僕は、真面目地味系が好みだった…。
例えば、和久井映見様とか…(汗)。
僕は彼女と話を合わせる為に「俺もイギリスに行くのが夢」などと平気で嘘をついた…。
事前にあらゆる手をつかって彼女の情報を手に入れていたので、僕はうまく話題を合わせていった。
あらゆる手とは「影武者ちゃん」たちに暗躍してもらったのである(笑)

「影武者ちゃん」…、ほとんど大学に行かないでバイトばかりしていた僕にとって女神のような人たちで、
バカ学生の典型だった僕が4年間で大学を卒業できたのは、彼女ら3名の協力のおかげである。
まず、入学して初コンパで「影武者ちゃん」候補を3名発見!
ポイントは地味、真面目、温厚、地方出身者、あまり男ウケしないタイプ…などである(苦笑)。
彼女たちは、僕の代わりに出席、代返、ノート&レポート作成などをしてくれた。
そして、試験のときは可能な限りカンニング補助も…(汗)。
僕はその見返りに、影武者ちゃんがスキーに行きたいと言えば車をだし、TDLに行きたいと言えばお供をし、
食事に行きたいといえば流行の店に行き、男の飲み会のときは招待し、まるでホストのごとく尽くした(笑)。
当時は「Tokyo Walker」が創刊された頃で、新しい話題のスポットの行くのが流行った時代だった…。
そして接待の結果、貴重な授業のノートを手に入れると、僕はバカ仲間にコピーを売りさばいた。
そして集まった金は、「影武者ちゃん」たちの接待費になった…。
バカ学生だった僕は、4年間この繰り返しだった…。
とにかく「影武者ちゃん」たちとはビジネスライクにgive&takeの関係だったので、
僕が狙っていた女性の情報も、どんどん入手してきてくれたのであった(笑)。
(その代わり、彼女らの恋愛の相談にものってあげたが…。)
その情報のおかげで、僕は彼女と話題をウマク合わせていき、
一時は「一緒にイギリスに行こう」というところまでいった…。

しかし、人生そんなに甘くない! あえなく破局。
それは、「影武者ちゃん」を東京ドームに接待したところを、彼女に現行犯で見つかってしまったのだ。
接待とはいえ、お揃いのスワローズのメガホンはまずかった…。
超~真面目な彼女は僕を「二股男」と決めつけ去っていった…。
正直に接待の話を告白して弁明したのだが、超~真面目な彼女にとっては「火に油」で、
救いようがないくらい軽蔑され「結婚したくない男ナンバー1」とまで言われてしまった(涙)。
僕は潔白なのに誤解されてしまったが、ある意味、まさに因果応報である。

そして、僕は一度申し込んだ「イギリス行き」を「オーストラリア行き」に変更するはめになった…。
冬に暗い感じのイギリスに行くなら、その時期のオーストラリアは真夏だし、気分が晴れると思ったのだ。
ある日、大学から帰宅すると、まだ見ぬホストファミリーから、僕宛にエアメールが届いていた。
同封されていた写真には、3人の子どもたちと豪邸が写っていた。
そして、手紙を読んだ後の僕は、初ホームスティの不安なんか吹っ飛んでしまっていた…。
全く英語ができないにもかかわらず…。

出発当日、僕は少し早めに成田空港の出発ロビーの集合場所に着いた。
まだ他に誰もいなく、僕は一番乗りだった。
自宅から空港までは、渋滞がなければ高速道路を車でとばして約30分ほどである。
まだ当時は、関空もなく西日本の人たちにとって海外旅行が少し不便な時代だった。

集合時間が近づいてくるにしたがって、次第にホームステイ申込者が集まってきた…。
しかし、集まってくるのは女子大生ばかりで、男性はいない…。
僕は内心あせった…、ま、まさか、ハーレム状態?(汗)。
い、いや、「女の中に男が1人」状態…?
機内に乗ってからも、周りの席を見回してみたが、やはり男は僕1人だった…。
仕方がないので、僕は「気の合わない野郎と一緒よりはラク」と前向きに考えながら眠りについた…。

夕刻、僕の乗った飛行機はシドニーのキングスフォード・スミス国際空港に到着した。
僕にとってオーストラリアは、タイ、シンガポール、ハワイの次に行った4番目の国だ。
サマータイムが実施されているとはいえ、まだ外の景色は明るく、
冬着をしていた僕は、興奮と緊張で次第に汗ばんでいった。
僕はホテル行きのバスの車窓から、初めて見る英国風の建物に少し驚き、
それを楽しみながらも期待と不安が交差するのを感じながら、
冷ややかな目で、はしゃいでいる女子大生たちを見ていた…。

僕は真面目な工学部の学生でもなければ、女日照りの法学部や経済学部の学生でもなく、
女子学生率40%の社会学部在籍、バイトもTDLとファーストフード掛け持ち、チャラい茶髪学生だった。
硬派路線でいくか、軟派路線でいくか、失恋直後だった僕は、そんなくだらないことで悩んだ…。

到着の日はシドニーのホテルで1泊し、翌朝ホストファミリーの住む街、Wollongongに向う予定だった。
ホテルの部屋で寛いでいると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
英語がしゃべれない僕が少しビビリながらドアを開けると、機内で一緒だった女子大生2人が立っていた。
そ、それは、夜の散歩のお誘いだった…。
その2人はグループでも上位3名に入るくらい可愛かったが、
「自分は可愛い女よ」というのを意識しているところが少し鼻につき嫌な感じだった。
前にも書いたが、当時の僕は真面目奥手地味系が好きだったのである(笑)。

とりあえず、僕らは軽く自己紹介をしながら、英国風のシドニーを歩いた。
1人は東京、もう1人は福岡出身で、2人とも名門お嬢様大学の学生だった。
(そのうちの1人は後日、某局の女子アナになった。)
でも、僕は何となく自身満々タイプの彼女たちに閉口していまい、あまり会話に参加することはなく、
初めての街を歩く彼女たちのボディガード状態になっていった…。
彼氏がいることも即判明したし、略奪愛に無関心な僕はすっかり興ざめしていた(苦笑)。

翌日、Wollongongに着いた僕は、ROBERTSON家にお世話になることなった。
Dadはエンジニアで知的、基本的に温厚でおとなしい、気は優しくて力持ち、筋肉の塊。
Momは有名な教育学者らしく、たまにTVに出ることもあった。
子どもは12歳、9歳の男の子と6歳の女の子、計3人。
子どもたちは学校には行かないで、教職資格のあるMomが自宅で勉強を教えていた。
そして、土日は家族5人で地域のボーイスカウト活動をしたり、
その他にダンス、バイオリンなどの習い事もしていた。
子どもたちは「ヒキコモリ」なんかではなく、超英才教育を受けていたのだ。
後日、長男は15歳でシドニー大学に合格し、新聞に載ったし、
次男は13歳で大学の聴講生になったらしい。
この教育方針は珍しいらしく、テレビの取材がきたりして、僕も1秒くらいテレビにうつった。
家は遠くに海を見ることができる高台にあり、プール、ジム付、部屋数は20近くある古い豪邸だった。
そして、彼らは無償ボランティアで僕を受け入れてくれた。
子どもの教育としての文化交流と日本語の勉強が、ホスト先の目的だったみたいだ。
語学学校で一緒なった日本人の中で僕が、一番英語が下手なくせに一番いい生活だった(笑)。
31

この家族との初日については強烈な思い出がある。
家に着いた後、とりあえず家族たちとコミュニケーションを取ろうと思い、
大きな辞書を片手に超~ド下手カタカナ英語で自己紹介をした。
そのとき、僕は自己アピールのつもりで「ホノルルマラソン完走」の話をした。
英語ができなかった僕は、運動バカ系キャラで、子どもたちの気を引こうとしたのである。
すると、僕が思ったとおり、男の子2人の目が輝きだしてきた…。
ふ、ふ、ふ、計算どおり…、日本でいうと小6と小3、可愛いもんである(笑)。

ところが、この2人、「今夜、ボーイスカウトの夜間ハイキングがあるから一緒に行こうよ!」などと、
突然とんでもないことを言い出した…(驚)。
「おいおい、こっちは長旅でお疲れなんだよ!」と心の中でで叫びながらも、
それを言える英語力があるはずもなく、わざと僕は困惑した顔をしてみせるだけだった…。
すると、さすが教育学者!Momが「ジュンは疲れているから、ハイキングはダメ」と助け舟。
しかし、無邪気な息子たちは「フルマラソン走れる体力なら、大丈夫だよ」と引き下がらなかった…。
すると、今まで黙っていた筋肉の塊のDadが厳かに言った…、
「そうだな、42,195km走れるなら、大丈夫だろう。今夜はたったの16kmだし…」

ガーン、夜間・山道・16kmである…、これって楽しいのか…?(大汗)。

結局、僕はボーイスカウトの少年たち、その保護者たちと一緒に山と森の夜道を16km歩くはめになった。
前日、雨が降ったらしく、舗装されていない道はぬかるんでいた。
たまに、物珍しげに僕を見る少年たちが話かけてくれたのだが、
僕の聴解力・会話力に問題があり、全く会話は成立しなかった…。
外人慣れしていない子どもは、ゆっくりとは話してくれないのである…。
しばらく歩くと「立ち入り禁止」の柵があったが、ボーイスカウトの親も少年も、
それを軽く無視して、フェンスの裂け目から内側へ入って行った。
まさにサバイバル訓練状態である(苦笑)。
瞬間的に僕は「ランボー」という映画で、スタローンが隠れた山中を思い出した…。
ぬかるんだ山道を歩くことに慣れていない僕は、突然足を滑らせ斜面から滑り落ちた。
反射的に何とか近くの木にしがみつき転落はまぬがれたが、全身から汗が噴き出した。
立ち入り禁止区域には外灯もなく、懐中電灯と月明かりだけが頼りだった…。

あまりの緊張と疲労で、どれだけ時間が経ったかわからないが、僕は山の頂上まで登ることができた。
岩に腰掛けて休んでいる僕にDadが夜空を指差しながら「見ろ、あれが、南十字星だ」と教えてくれた。
語学力の無さからグループの会話に入っていけなかった僕は、1人で夜空を眺めていた…。
それは日本では見たことがなかった、まさに「星降る夜」という表現がピッタリだった。
僕の頭上では、満天の星が輝いていた…、そして、だんだんとナルシストモードになっていくのであった…。

帰り道、ようやく山の麓に着くと、既に夜中の12時になっていた。
どうやら4-5時間、歩いたらしかった…。
「やれやれ、次の日から学校だというのに…」、
僕はステイ先に着くなり、疲労と睡魔のせいで、ベットに倒れこんだ…。

夜間ハイキングの翌朝、カシャン、カシャンと金属音で、僕は目覚めた…。
何の音だろう…、ドアの外を覗いてみると、
上半身裸のDadが筋トレマシーンを使ってモクモクと汗を流していた…。
あらためてよく見ると、Dadの胸板の厚さも腕の太さも、僕の倍以上あった。
こ、これがオージービーフ強化法か…、
僕はサッカーよりラクビーが盛んな国に来たことを早くも実感させられた(汗)。

朝食はトーストかコーンフレーク、異国の地とはいえ、これは米派の僕には辛い仕打ちだった…。
物足りない朝食を食べ終えた頃、後に女子アナになる女子大生Qがやって来た。
Qのステイ先は、僕のステイ先の隣家だったのだ。
両家のファミリーが誘い合って無償ボランティアに参加し、日本人学生を受け入れたのである。
Qのステイ先は豪邸ではなかったが、ロバート・レッドフォード似の建築家と妻、5歳、3歳、1歳の娘たち、
とても暖かい理想的な家庭だ。

高台に上にあるステイ先から最寄り駅まではバスがなく、歩くと1時間くらいかかった。
そんなオーストラリアの田舎なので、両家のホストが交代で最寄り駅まで送ってくれることになっていた。
帰りは時間がわかり次第、ステイ先に電話する約束で、その都度、駅まで迎えに来てくれた。

当時の僕の英語は、「普段何の勉強もしていない人が、いきなり外国に来ました」状態で
本当に「悲惨」としか言いようがなかった…。
カラクリTVのファニエスト・イングリッシュに登場する人たちと五十歩百歩だったと思う(苦笑)。
ところが、僕のホストファミリーに自己紹介をしているQの英語はペラペラだった(驚)。
駅へ向う車内で話を聞いたら、アメリカ留学経験がある、とのことだった。
何となく、僕は納得した…。

短気留学、ホームステイには、いくつかのタイプがある。
大学の海外の姉妹校へ行ったり、民間の留学センターに斡旋してもったり、友人の紹介で行ったり…。
語学習得がメインだったり、文化交流がメインだったり、目的も様々だ。
僕が民間の留学センターに申し込んだホームステイは文化交流がメインだった…。

僕は田舎の小さな語学学校の日本人クラスに入れられた…、というより日本人の学生しかいなかった…。
授業は午前中だけで、午後は幼稚園、小学校、牧場や動物園も訪問したり、
いろいろなアティビティ活動をし、オーストラリアを学んだ。
地元のローカルTVにも「日本から来た学生たち」ということで出演した。
生徒数は9名、僕とQの他に、京都のK女子大軍団が6名、家事手伝い1名。
英語ができたのはQだけで、残りの8名は団子レース状態で最下位争いをしていた。
Qは自分に自信を持っているタイプ、仕切りたがり屋だった。
Qの父親は誰もが知っている人気企業の役員で、
「私、ファザコンなの~」と父親の名刺を見せびらかし暗に育ちの良さを自慢。
東京の名門といわれる小中高出身、お嬢系大学を暗に自慢…、最後は恒例の彼氏自慢…。
Qは唯一英語力がある人だったので、オージーと生徒の通訳として、クラスを仕切っていった…。

ホームステイを始めてから初の休日、
海岸沿いの大きな公園でホストファミリーたち主催のBBQパーティがあった。
9名の生徒のホストファミリーや、学校の先生方が企画してくれたのだ。
英語が全くできない僕は、会話に入れないので運動バカ系キャラになりきり、
ステイ先の12歳と9歳の息子たちと芝の上でサッカーを始めた…。
高2の時、サッカー部顧問に「香港代表」と呼ばれていた僕である、2人を軽く子ども扱いにしてやった…。
(まあ、本当に子ども相手だったんだが…。)
ちなみにプレースタイルは野人・岡野を超~粗悪品にした感じである(苦笑)。
しばらくすると、僕たちがボールと戯れているのを見ていた他の少年たちが、次第に集まってきた。
そう、「ボールは友達!」である。
どうやら、彼らにとっては、英語ができない日本人女子学生の相手は退屈らしい…。
よく観察してみると、彼女たちは「英語できない」+「消極的モジモジ態度」、
日本語を話している時とは、まるで別人だった。

そして、集まった少年たちと草サッカーをすることになり、背の順でチームを均等に分けた。
少年たちのほとんどが小学生、あとは中学生2名、高校生1名、大学生が僕を含め2名。
そして、人数合わせに、オージーパパたちも数名参加し、そして試合は始まった…。
ここはオーストラリアだ、ブラジルではない…、試合開始から10分間で、僕は8点を取った。
日向小次郎の0.05倍の破壊力をもつ僕のシュートに、
おデブGKのオージーパパは1歩も動けず触れることすらできない…。
しかしながら、その時点のスコアは8-0ではなく、8-9くらいだった。
まだ開始10分そうそうなのに…(汗)。
草サッカーをする少年たちの目はマジである。
とにかく勝とう、という彼らの気持ちが伝わってきたので、
僕は点差が開かないように取られたら取り返した…。

でもこのままでは面白くない…、僕はシュートを打つのを止め、アシストに接することに決めた。
残りの時間、美味しいところは、全部、少年たちに譲った…。
日本代表FWのごとく、ゴール前でもシュートを打たず、パス連発(笑)。
オフサイド無しの草サッカーなので、おデブGKを抜いた後、子どもにパスしてゴールをプレゼント。
そして、歓喜する子どもたち…。
すっかり少年たちのハートを掴んだ僕は、草サッカーが終わると、初クリケットに挑戦した。
草クリケットなんて草野球に毛が生えたようなものだ…、僕は子どもの中に混ざって大暴れ…(汗)。
サッカーと違って、バット(ラケット)で打つのには手加減はいらない。
ぬぅおぉぅぅぅぉー、僕は、ドカベンの岩鬼正美のごとく叫び、
昔、近鉄にいたブライアントのごとく大振りを連発…。
やっぱり小学生と精神年齢が近いということなのだろうか?(汗)
そして、このBBQパーティが終わる頃には、僕が一番有名な生徒になっていた…。

このBBQパーティの後、僕は他のホストファミリーから招待されるようになった。
自分のファミリー以外の8ファミリーのうち、4ファミリーの家に遊びに行くようになった。
招待してくれたファミリーには必ず小学生くらいの男の子がいて、
僕は子どもの遊び相手として招かれたのだ。
これが、あとあと災いの種になっていくのだが…。

楽しいホームステイ生活をおくれるかどうかは、正直言って運に左右されることも多い。
僕のホストファミリーは大当たりだったし、多分1番恵まれた環境だったと思う。
でも逆に、ホストファミリーとうまくいかない生徒もいた。
僕は現場を見ていたわけではないので、どちらに問題があるのかわからないが、
軽い気持ちで日本人を受け入れてしまったオージーもいたし、
ホストファミリーと会話をしようとしない消極的な生徒もいた。
これは双方にとって不幸なことであるのは間違いない。
ホームステイから1週間過ぎると、女子大生たちの話題はホストファミリーへの愚痴が多くなってきた…。
食事がマズイとか、子どもが邪魔とか、家が汚いとか、そんなことである。

この頃、クラスの中では、明らかに仕切り屋のQが浮いていた。
9人中、京都のK女子大生が6人、元々つるんで日本から来たので、Qの入る余地がなかったのだ。
そして、この6人は毎日ホストファミリーの悪口を言って盛り上がっていた…。
僕は、こんな京都軍団にウンザリし、口をきくのも嫌になっていった…。

ホストファミリーはボランティアで学生を受け入れているのであり、
僕らは無料で食事付の部屋を提供してもらっている。
金銭的取引がないのに、ホテルみたいな待遇を求めるのはおかしい。
早い話、僕らは居候なのだ。

ある日、僕は、そうハッキリ言ってやった…。

すると「東京モンは、すかしてんなぁー」と反発され、険悪な雰囲気になった(苦笑)。
まあ、1番待遇のイイ奴からは、そんなこと言われたくないという気持ちはわかるが、
僕は自分でバイトした金で、オーストラリアに来たので、
京都軍団の愚痴なんかで、自分の時間を汚されるのをとても嫌っていたのだ。

予想に反して、1番攻撃してきたのは今まで浮いていたQだった…。
そう、僕をスケープゴートにして京都軍団に取り入ろうとしたのだ。
その証拠に、江戸っ子のくせにQは関西弁をしゃべるようになった…。
英語ができるQの攻撃は陰湿だった、それは「嘘情報作戦」。
例えば、先生やホストファミリーに、ある事ない事を吹き込むのである。
他にも嘘の集合場所や集合時間を教えられたりした。
僕が文句を言うと、Qは変な関西弁で言った。
「もっと、英語の勉強すればいいやん?」
Qの嘘に反論できるだけの英語力がなかった僕は精神的に追い詰められた…。
それと同時に外国で英語が話せないと、どういう目に合うか身をもって学んだ。

そして、僕は学校へ行かなくなった…。
女性は殴らない主義だが、いつか暴発しそうで怖かったのだ。
そんな僕の様子を見たファミリーは、とても心配してくれたが、
僕は、何を言っているか聞き取れなかったし、何を言っていいのかもわからなかった。
だんだんファミリーとは筆談が多くなり、僕は落ち込んで無口になっていった…。

そんなある日、ファミリーが僕に言った。
「ジュンが英語をしゃべれないのと、私たちが日本語をしゃべれないのは同じことだから気にすることない」
まるで、本当に映画のワンシーンのようで、僕は感激して泣いた。
そして心に決めた。
「この人たちと会話する為に勉強する!」
これが英語嫌いだった僕が、英語の勉強を始めた理由である。

何故、僕がこの家庭に選ばれたのだろう?
僕はMammyに質問してみたことがある。
その理由は「Junが男性だから」、本当にそれだけのことだった(苦笑)。
このプログラムのホストファミリーはボランティアで学生を受け入れているのであり、
僕ら学生は無料で食事付の部屋を提供してもらっていた。
受け入れるホストファミリーは、色々な理由から「女子学生受け入れ希望」が多かったらしい。
そして僕のホストファミリーだけが「性別問わず」だったとのこと。
つまり受け入れ過程で最後まで残ってしまったのが、1人だけ男性だった僕である。
何で「性別問わず」だったかと質問したら、
「もし男子学生だったら、上2人の息子たちの相手になるし、女子学生だったら娘の相手になるから」とのこと。
しかし実際は下の娘の相手をすることが多かった…(苦笑)。

12歳と9歳の息子たちは僕とサッカーやテニスをして遊びたがったが、6歳の娘はかくれんぼやママゴトをしたがった。
息子たちや僕はママゴトだけは勘弁って感じだったが、サッカーやテニスに6歳の娘は入ってこれない。
そして泣いて両親の元へ…。
末っ子はカワイイのである。
DadやMammyは僕を叱ることはしなかったが、息子たちに「妹の面倒をみろ!」みたいなことを言っていた。
息子たちがしょげている間に娘は僕の手を引っ張り、そして娘の部屋へ…(汗)。
6歳のくせに化粧とかドレスとか着だしたりするのである…(また汗)。
そして僕の顔にはKISSマークが…(激汗)。
夜には僕の部屋に忍び込んでくるし…(向こうではドアを開けたまま寝るのが習慣)。
ロリコン読者にはたまらない展開だろうが、娘命の筋肉マンDadに首を折られるような気がして内心ビビっていた。
勝手にベットの中に入ってくるので覚えたての"Get out"を使ってみたりしたのだが、
この6歳に”You, Shut up!”とか言われる毎日だった…(苦笑)。
でも英語ができなかった僕でも必殺技くらいある。
娘が部屋に侵入してきたときには”DAD!”と大声で叫んだ。
すると筋肉マンのDadがとんできてくれて”Sorry.”と言いながら、嬉しそうに娘を連れ出してくれた。
このロリコン野郎!と誤解される前に自己防衛である(笑)。

たしかに僕は男性だが、料理・洗濯・家事仕事は苦にしないので、部屋はきれいに使ったし、
掃除や皿洗いも率先してやったし、よく日本食だってつくった。
僕は居候させてもらっているという気持ちが強かったのでホストファミリーには恩を感じていたのだ。
お互いに思いやりを持って接していたと思う。。。




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